緑川少年スポーツクラブ; 宇土市立住吉中学校; 2010年 - 2012年 熊本県立大津高等学校; プロ経歴. 鹿島アントラーズ. jリーグカップmvp:1回(2012年) 鹿島アントラーズブログの人気ブログランキング、ブログ検索、最新記事表示が大人気のブログ総合サイト。ランキング参加者募集中です(無料)。 - サッカーブログ 鹿島アントラーズ(1998-2004年) 1998年、jリーグの鹿島アントラーズに入団(同期は小笠原満男、本山雅志、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗)。同い年の小笠原、本山とともに中盤を担い、チームの多くのタイトル獲得に貢献した。 トップチームのプロフィールページです。鹿島アントラーズのオフィシャルサイト。すべては勝利のために、アントラーズファミリーとともに紡ぐFOOTBALL DREAM。最新ニュース、試合情報など、クラブに関する情報をお届けします。 j1リーグ:1回(2016年) jリーグカップ:3回(2011年、2012年、2015年) 天皇杯 jfa 全日本サッカー選手権大会:1回(2016年) スルガ銀行チャンピオンシップ:2回(2012年、2013年) 個人. 2020年09月30日(Wed)17時00分配信 !セルクル・ブルージュが逆転で14戦ぶり白星, 日本代表、中国戦スタメン発表! 第1戦から先発7人変更 植田ら4選手がA代表デビューへ, Y☆voice153 大津高DF植田直通「Jリーグの練習参加で当たり負けとかはしなかったけれど、もっとボクは大きいところを目指していきたい」, 【鹿島】元テコンドー日本3位植田、罰金徴収担当で選手会長支える「源君をサポートしたい」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=植田直通&oldid=80166929, TAG Heuer YOUNG GUNS AWARD・ベストイレブン:1回(2017年). 2017年に鹿島アントラーズ選手会の副会長に就任。かつての格闘技経験を買われ、罰金徴収係を任された 。 所属クラブ. 植田 直通(うえだ なおみち、1994年10月24日 - )は、熊本県宇土市出身。プロサッカー選手。ポジションはディフェンダー(センターバック)ジュピラー・プロ・リーグサークル・ブルッヘ所属。日本代表。, 小学生時代から格闘技テコンドーを始める。小学3年生の時には、小学生部門全国第3位になった他、中学時代には日本一、さらに、世界大会にも出場したという。小学3年生の頃に友達に誘われて緑川少年スポーツクラブでサッカーを始めると、徐々にサッカーに熱中するようになる[2]。, 宇土市立住吉中学校ではサッカー部に所属。中学卒業後は「どうせやるなら、全国やプロを目指せる環境で挑戦したかった」という思いで、地元の強豪校である大津高校に入学。サッカー部に入部して間もなく監督の平岡和徳から「日本で極めてまれな素材」とその才を見出され、1年生の頃からスタメンに抜擢される[3][4]。3年次には主将に就任。同年は天皇杯の熊本県予選であるNHK杯熊本県サッカー選手権大会を制し、第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会に出場[5](当時JFL在籍のV・ファーレン長崎に敗れ1回戦敗退)。第91回全国高等学校サッカー選手権大会にも出場したが、一回戦で旭川実業高等学校に敗れた[6]。, 大津高校卒業後に浦和レッズ、横浜F・マリノス、川崎フロンターレ、FC東京、名古屋グランパス等のクラブから獲得オファーを受けた。最終的に「雰囲気がファミリーに近い。」ということで[7] 同じ大津高校の豊川雄太とともに2013年、鹿島アントラーズに入団する[8][9]。入団会見では自身をワニに喩え、ワニが獲物を水中に引きずりこんで仕留めるように得意な部分に持っていって相手を仕留めたい、と語った[10]。2013年3月23日、ナビスコカップ第2節・FC東京戦でプロ初出場を果した。, 2015年4月16日、J1 1stステージ第6節柏レイソル戦でプロ初得点を挙げた。シーズン終了後はサガン鳥栖やヴィッセル神戸からオファーを受けたが、断って鹿島に残留する事を決めている[11][12]。, 2016年はファン・ソッコとレギュラー争いをして、センターバックのポジションを争った。FIFAクラブワールドカップ2016(クリスティアーノ・ロナウド出場)では昌子源とディフェンスラインを組み、堅い守備で決勝進出に貢献した。決勝のレアル・マドリード戦では4失点を喫し敗戦したものの、その守備力は海外メディアからも評価された[13][14]。, 2017年9月23日、第23節のガンバ大阪戦では終了間際にCKから得点を決めて5連勝に貢献した。, 2018年7月12日、ベルギー1部リーグのサークル・ブルッヘへの移籍合意が発表された[15]。8月12日、第3節のスタンダール・リエージュ戦でスタメンデビューを飾った[16]。4月6日、プレーオフ2・第3節のロイヤル・エクセル・ムスクロン戦で移籍後初得点を決めた[17]。, 2014年12月28日、怪我により出場辞退した内田篤人に代わり、2015年1月にオーストラリアで行われるAFCアジアカップ2015の日本代表メンバーに初選出された[18]。しかし、大会を通して試合に出場する事はなく、チームも準々決勝で敗れた。, 2016年、AFC U-23選手権2016のメンバーに選出され、グループリーグ第1戦のU-23北朝鮮代表戦では決勝ゴールをあげた。7月1日、リオデジャネイロオリンピックの18人のメンバーに選出され、3試合全てフル出場するも、チームはグループリーグ敗退となった。, 2017年12月12日、EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017の中国戦で代表デビューを果たした[19]。2018年6月、2018 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、初のW杯メンバー入りを果たすも出場は無かった。元日本代表DF槙野智章、元日本代表FW本田圭佑らの経験豊富なベテランメンバーと日本代表チームを盛り立てた。, 2020年10月13日、オランダ・ユトレヒトで行われた国際親善試合のコートジボワール戦で、後半88分に室屋成と交代し3バックに変更。日本代表が最後の攻勢をかけると、アディショナルタイム1分にセットプレーから鹿島アントラーズ時代の元チームメイトである柴崎岳のクロスボールにヘディングで合わせ代表初得点を記録。, 186cmの長身と抜群の身体能力を誇るセンターバック。フィジカルと対人戦、空中戦の強さに自信を持ち、「フィジカルなら海外の選手にも負ける気はしない」と自負している[20]。豊川雄太は高校時代の植田について「こいつ(植田)が守備で負けたのを見たことがない。大学生でもプロでも吹っ飛ばしていた」と語る[7]。また、50mを6.1秒で走る俊足も兼ね備えており、強さや高さだけでなく、速さも持ち合わせている[21][22][23]。筋肉量や体脂肪率、LMI(筋肉指数)など全6項目で計る「体組成テスト」の数値ではU-22日本代表でトップである[24]。, http://web.archive.org/web/20160304141248/http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/07/07/kiji/K20110707001161670.html, https://www.nikkansports.com/soccer/news/1751540.html, https://web.archive.org/web/20160303200457/http://www.hochi.co.jp/soccer/national/20151230-OHT1T50017.html, レアルの強力攻撃陣と対峙した鹿島守備陣。本国スペインのメディアはアントラーズのパフォーマンスをどう評価したのか?, 植田直通の加入後初ゴールは十八番ヘッド!

中田 浩二(なかた こうじ、1979年7月9日 - )は、滋賀県志賀町(現大津市)出身の元サッカー選手。現役時のポジションはミッドフィールダー(ボランチ)、ディフェンダー(センターバック、左サイドバック)。元日本代表。妻は女優・タレントの長澤奈央。, 滋賀県志賀町(現大津市)出生。小学校低学年のころは父親の転勤の関係で転校を繰り返しており、サッカーを始めたのは神奈川県横浜市の南戸塚小学校2年の時である。小学校3年の時、鳥取県米子市の義方小学校に転校し、そこで本格的にサッカーを始めるようになる。小学校5年の時、全日本少年大会に出場する。米子市の後藤ヶ丘中学校に進学し、中学3年の時に全国中学校大会に出場する。2年の時に中国選抜として選抜中国大会に出場する。中学校までのポジションはFWで、左足の怪物として地元紙にも取り上げられるほどの存在となる。, 帝京高校進学後はBチームに入れられるなど決して順調ではなかったものの、ボランチに転向し、頭角を現す。3年生のときにキャプテンとして全国高校サッカー選手権に出場し、決勝では後に鹿島アントラーズでチームメイトとなる本山雅志擁する東福岡高校に敗れるものの、準優勝を収める。この試合は雪深い国立競技場で行われ、試合中に転倒する選手が続出した。また試合球として、白い雪の中でも目立つオレンジ色のボールが採用されるなど、後々まで語り継がれる試合となった。, 1998年、Jリーグの鹿島アントラーズに入団(同期は小笠原満男、本山雅志、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗)。同い年の小笠原、本山とともに中盤を担い、チームの多くのタイトル獲得に貢献した。鹿島ではリーグ優勝2回、天皇杯優勝1回、ナビスコカップ優勝1回を経験している。2003年8月の大分トリニータ戦で左ひざ靭帯断裂の大ケガを負い、長期戦線離脱を余儀なくされた。2004年5月、柏レイソル戦で259日ぶりの試合復帰を果たした。, 2005年1月、元日本代表監督のフィリップ・トルシエが監督をしているフランス1部リーグのオリンピック・マルセイユの練習に参加する。マルセイユ側は中田の獲得を打診するが、提示された移籍金が低額だったため、鹿島側は中田の移籍を認めなかった。同時期、中田との契約切れが迫っていた鹿島は来季以降の契約更新を申し出るが、中田本人が海外移籍を希望していたため断り続ける。その後、契約切れとなりフリーの立場で同年1月26日にマルセイユに移籍した[注 1]。所属クラブの意向を無視した移籍ゆえに円満移籍とはならなかった。, 移籍当初はそこそこ出場機会はあったが、不慣れな左サイドバック、ライバルチームであるPSG戦でのオウンゴール、トルシエ監督の解任により出場機会が激減。守備的MFだけでなくDFもこなせるため出場が期待されたが、イスラエルのクラブからの数億単位の移籍話を蹴ったことでフロントとの関係が悪化、その結果、事実上戦力外にされてしまう。, 2006年、出場機会を求めてクラブに移籍を申し出る。古巣の鹿島にも打診したが、「移籍金0円なら獲得する」という回答だった。イスラエル、ウクライナのクラブからオファーが届くもいずれも断り、スイスリーグの名門FCバーゼルの練習に参加し、その後正式契約を結んだ。, 2006-07シーズンは、海外のクラブに所属している日本人選手としては珍しく、センターバックとしてレギュラーに定着した。10月のザンクト・ガレン戦で鼻を骨折して途中交代するまでは、19試合連続でフル出場していた。中田の加入以降、バーゼルは2005-06、2006-07シーズンと2シーズン連続で勝ち点1差で優勝を逃すが、2007年5月にはスイスカップに優勝。バーゼルでの初タイトルを獲得した。, 2007年6月に代表戦に出るために帰国した際に、人気女優加藤あいと超遠距離恋愛をしていた事が発覚する(2008年7月に加藤と破局と報道される)。, その前後、古巣・鹿島が優勝を目指す為に中田にオファー。中田自身は鹿島が必要としているなら復帰する意思があると伝えたが、鹿島の提示金1億円に対して「中田は必要な選手」とするバーゼルの提示金3億円(ともに推定)では大きな開きがあり、このときは移籍断念となった。, 翌2007-08シーズン、バーゼルは悲願のリーグ優勝を果たし、スイスカップも連覇して二冠を獲得。中田も負傷離脱した時期を除き不動のレギュラーとして活躍したが、この頃にはバーゼルの慰留にもかかわらず、中田の鹿島復帰の意思は公然とマスコミに取り上げられるようになった。2008年4月、スイスリーグの終了を待たずして、バーゼルとの契約終了後に鹿島へ移籍することが正式発表された。同年7月より、およそ3年半ぶりにJリーグでプレーすることになった。, 鹿島復帰後はユーティリティー性を買われ、ボランチ、左サイドバック、センターバックと主に3つのポジションでプレー。しかし膝の怪我の影響か全盛期の身体のキレは全く見られず、1対1で簡単に振り切られる場面が多々見られた。10月に膝の再手術に踏み切ったことにより残りシーズンを全休。チームは連覇を達成したものの、中田本人にとっては公式戦わずか12試合の出場に留まり、不本意なシーズンとなってしまった。2009シーズン当初は青木剛にポジションを譲り、控えに甘んじていたが、チームが失速した夏場以降、出場機会が増えた。, 2011年シーズン当初は増田誓志の復帰、本田拓也、柴崎岳の加入でボランチの層が厚くなり、大岩剛の引退で層が薄くなったセンターバックで伊野波雅彦と併用にされていたが、しだいにセンターバックのレギュラーに定着、その後、伊野波は移籍をした。, 1999年のワールドユースの大会直前に、レギュラーDFと目されていた鹿島のチームメイト金古聖司が負傷し、当時の監督フィリップ・トルシエによってDFにコンバートされた。中田はこの大会で全試合に左センターバックとして出場し、日本は準優勝した。, オリンピック代表でもレギュラーに定着し、2000年にシドニーオリンピックに出場。グループリーグ3戦目のブラジル戦でルーカス・セベリーノによって負傷させられ、その後の試合には出場できなかった。, A代表でのデビュー戦は2000年2月5日のメキシコ戦[1]。2002年FIFA日韓ワールドカップで4試合すべてにフル出場、日本のベスト16に貢献したが、ベスト16のトルコ戦では自陣で相手選手へパスしてしまい、その後の相手のパスは防いだもののCKを献上、そのCKで失点した。, バランス感覚と正確なロングフィード、時にはサイドバックのようなオーバーラップで、トルシエの提唱するフラット3の左のDFというポジションをつかみ、トルシエ監督下、最もコンスタントに試合に出場した選手の一人である。, ジーコが日本代表監督に就任すると、本来のボランチとして出場するようになった。トルシエ時代より出場機会は減ったが、主要大会のメンバーには毎回選出された。, 2004年7月アジアカップ準々決勝ヨルダン戦では、外すと負けというピンチからPK戦4人目としてシュートを成功させる。準決勝、決勝と2試合連続でゴールを挙げて、日本は大会を2連覇した。2006年ワールドカップ・ドイツ大会では、3戦目のブラジル戦に途中出場した。, 2006年ワールドカップ後に就任したイビチャ・オシム監督のもとでは、欧州のクラブに属している選手がコンディションを崩さないようにという配慮のため、しばらく日本代表への招集は見送られていたものの、代表収集の条件となる“所属クラブでのレギュラー定着゛を果たしている事や、オシム監督が選手に求める“ポリバレント”な能力を持ち合わせている為、日本代表への復帰の可能性も高いと見られていた。2007年6月のキリンカップでオシムジャパン発足後初選出された。, 2015年1月14日、鹿島のクラブスタッフとしてクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任した。CROはクラブを運営するにあたって連携が必要な協賛企業・団体や行政機関、更に地元市民などの利害関係者(ステーク・ホールダー)とチームをつなぐことを目的として、ビジネス面においてのサッカー事業に重点を置き、クラブ運営をサポートする責務を負う[4]。また同4月より左記のままでテレビ朝日「やべっちFC」のレギュラーコメンテーター(中山雅史と原則隔週交互出演)に就任した。2018年4月には筑波大学の大学院へ入学した[5]。, http://www.jfootball-db.com/players_na/koji_nakata.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=中田浩二_(サッカー選手)&oldid=79809949.